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日系人

皆さん「99年の愛 ~JAPANESE AMERICANS~」観てますか?
僕は毎日録画して帰ってきてから見てます。
日系人はほんと大変だったんだなと思います。
ロックバンド、リンキンパークの中心メンバーマイク・シノダ(Mike Shinoda、本名:マイケル・ケンジ・シノダ(Michael Kenji Shinoda)のサイドプロジェクトのフォート・マイナーのアルバムに収録されている『ケンジ』(Kenji)という曲があります。第二次世界大戦の時の日系人の事が歌われてます。
興味のある方聞いてみてください。

↓和訳見てからPV見たほうが良いと思います。


Fort Minor - Kenji

父は1905年に日本からやって来た。日本から移民してきたときは
15歳だった。彼はお店を実際建てることができるまで働いた

夢の話をしてあげよう
なぜそれを伝えないといけないのか分からないけど
その意味は分かってる
目を閉じて俺が描く場面を思い浮かべてごらん
ケンジという男が目覚めたのは第二次世界大戦の時だった
ケンは兵士でではなく、家族がいるだけの店を経営者だった
その日LAで彼はいつものようにベッドから起き上がって
妻と子供とベーコンエッグを食べていた
彼は営んでいる店の二階に住んでいた
日本からLAに移り住み
彼は移民者と呼ばれていた
日本語では一世と呼ばれていたが
英語では最初の世代ってって意味だった
あの頃はみんなドイツ人もJAPも怖がっていたが
一番恐れていたのは本土への攻撃だった
そしてその朝、ケンは玄関マットに出た途端
彼の世界は真っ黒になってしまった
そこで見たのは、新聞の一面のニュース
1942年より3週間前、真珠湾が爆撃され「JAPがやって来た」
走り回り、死んでいく兵士の写真
ケンはそれが何につながるか分かっていた
彼の推測通り大統領は言った
「邪悪な日本人は収監しろ」
2つのバックに今までの人生をまとめるために
ケンは2つ日間だけ猶予が与えられた
2つのバックだけだ
服さえまとめることだってできなかった
荷物をまとめるための
スーツケースを持っていない連中もいたから
彼らがもらったのは2枚のゴミ袋だけ
子供たちがママに行き先を尋ねたら
誰しもがどう答えていいか分からなかった
ケンは嘘をつきたくなかった
アメリカがスパイを探してるいから多くの日本人がいる
マンザナルへ行かないといけないと答えた
やめろ、武装兵士を見るな
お前が逃げるかどうか兵士に疑われたくはないだろ
走ったら撃たれるかもしれない
それ以外は、何も考えないようにしろ
混雑は心配するな
いつか出られるから、いつか、いつか...
戦争が勃発してからすぐにFBIがやってきた・・・・
家にやってきたらすぐに行かないといけなかった。日本人は皆行かないといけなかった
ニィ氏も連れて行かれたが、何故だかダレにも理解できなかった
彼は罪の無い従業員にすぎなかったのに
そして今、彼らは兵士に囲まれた町にいる
毎日、毎晩壁の上にある監視塔から見下ろされていた
ケンはみんなを憎むことができなかった
自分の仕事をしているだけだった
彼は問題を起こす気はなかった
彼は小さな畑を作り、野菜や果物を
妻が作ったカゴに入れて軍隊に渡していた
内心は家族を助けてもらいたかった
自分の国で戦争の捕虜となっている
何のためだ?
収容所の町での時間が経ち、彼は思った
生き抜いて、自由になれるとしたら
出られる方法は入隊することだけだ
そして何人か志願したらしい
志願して、爆弾を持って日本に飛ばされた
あの15キロトンの爆弾は戦争を早く終わらせた
粉々に爆発されてしまった2つの町
まもなく終戦となり
ケンは収容所から出ることが出来た
妻と子供と普通の生活を取り戻したかったが
戻った時のあの光景に
あまりにも孤独を感じてしまった
どの部屋もメチャクチャに壊され
窓は割られ、ドアは潰され
壁や床にあったには
「ジャップはもうここに来るな」だった
ケンジは2つのバックを両脇に落として外で突っ立ていた
言葉も無く妻を見ると
彼女は涙を拭いながら彼を見て
いつかは大丈夫になる、いつか、、、

名前は変えれたけど、ストーリーは実話だ
俺の家族は42年に収容された
俺の家族はそこにいた
暗くて湿っていた
そこは捕虜収容所と呼ばれていた
この言葉はクールだとは考えているのだという風には考えないで欲しい
ここにこのように記されているからといって
この言葉は使われるべきではないことは今日、皆が知るところだ
歴史上あったままを記すという目的によるものであるにすぎない
KENJIの曲中でJAPという言葉を使ったのは